昭和49年08月09日 朝の御理解



 御理解 第52節
 「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」
 
 驚くなと言われても、驚かなければおられない。それが普通、一般だろうとこう思うですね。こんな大変なことが起こって来た。驚くなと言われても驚かなければおられん。けれども、それは普通、一般であって、信心させていただくものも一緒に驚いておったんでは、私は信心させて頂いておる者の値打ち、神様を信じての生活させて頂いておる者としての値打ちはないと思うですね。
 ですから私は大きな事というよりか、小さい事にまず驚いたり慌てたり、ね、がんしょくを替えたりする様な事のない、修行が日頃みっちりできておらなければいけないと言う事です。ね。小さい事には驚くけれども、大きな事には驚かんと言った様な事の、あるはずがありませんよ。ね。小さい事にも心が動揺する。小さな事にも腹が立つ。うろたえる。そういう例えば生き方をしておったんでは、ね、大きな事が起きてきた時に、はもっと驚く事でしょう。それではね信心を頂いておる値打ちはないというのです。
 だから常日頃、いうならもう日々の信心生活の中に起きてくる全ての事を信心で頂いて行くと言う様な生き方から生まれてくるものは、ね、神様の働きの間違いなさ、いうなら一分一厘間違いのない程しの働きを受ける事ができるのです。そういう働きを受けての事であるから、例えそれがよし大きな事であっても、ね、この様に間違いのない神様のお働きの中にあっての事だから大きな事だけれども。
 それは普通で言うならびっくりする、驚くような事であるけれども、驚かんですむと思うですね。また常日頃の信心の修行によっていわば腹ができる。どん腹が据わる。ね、最近関さんが言われるように、船もろともという気になればと船もろとも、ね、例えば船でま航海なら航海をしておる。波がひどうなった。時化にあった。その時にですさあ船が沈んだらどうしようか、ね、と言う様な心でただ助かりたい助かりたいの思いだけでおったんでは、それこそそれこそ青うならなきゃなりません。
 けれどもそういう時にです、船もろともという気になれば楽じゃと。それを関さんの場合は、大きな事ではなくて小さい事柄の中にでもそれを感じられるわけですね。家庭の、例えば娘との関係の上においても、ね、職人さんとの間の上においても、隣近所とのいろんな問題においてもです、ね、ひとっつもガタガタ言う事もいらなければ、顔色を変える事もいらない。もう船もろともいうならままよという心ができておる。
 だから何にも言わんでもすむ、顔色ひとつ変えんですむ。その向こうに現れておるものは、もう今までとは打って変わった、手のひらをかやすようなおかげが次々現れておるという事実なのです。ね、ですからそういう事実を日々ふんまえての信心生活なんです。ですからならさあこれから先どの様な事が起きてきても驚かんですむ。驚くなと言われても驚かにゃあおられない、ね。
 けれどもそういう私は日々の、信心生活が起きて修行が積み重ねられていく所に、いわば驚かんですむ信心。そこに信心を頂いておる者、神様を真実の信心生活させて頂いておる者の値打ちがあるわけなんです。ね。昨日の御理解の、中にも申しましたように、上野先生が、色紙に何か書いてくれというて、持ってきたものに対して私が、真善美というのと、白露をこぼさぬ秋のうねりかなという、二枚にそれを書いてあげた。
 上野先生がその後にその、その色紙を前にして、一生懸命御祈念をしてから、ここまでやってきました。親先生このことを、私の一生の守りとさせて頂きたいと思います、というお届けを致しました。ね。いわゆる真善美皆さんが、いつも頂いて下さる通りの事なんです。嘘があってはならない。悪があってはならない。見苦しい事があってはならない。これを信心のまモットーとさせて頂く。
 それよりももっともっと、これは私が日々の心がけとさせて頂かなければならんのは、この、白露をこぼさぬ秋のうねりかなである。いうなら、秋の収穫を前にした、もうそれこそ波のうねりのように、もう黄金色づいた稲の、稲畑の情景です。しかも朝の情景ですね。朝露というのだから。ね、だからその朝露をこぼさぬほどしの用心、精進というものがいるのだと、どんな些細な事に対してでも実意を込めるという事なんです。どんな些細な事であってもです、ね。
 その白露を落とすような事があっては次の収穫がもう目の前にあっても、またおかげがすれ違うてしまう結果になるんだぞと。日々の精進もうちょっとした事でもムカッとする、ちょっとした事にでも腹が立つ。これではねもうこの収穫が、ね、いつも本当の収穫が得られんなりにしまえてしまう。だからそういう生き方を、なら大変難しい事かというと、そういう生き方こそ有り難いのであり、勿体ないのであり、ね、
 それこそ朝のすがすがしさ昼の有り難さ、な昼の忙しさ、夜の有り難さと言った様な充実した信心生活ができるんです。ね、迂闊にしておるからちょっとした事であっても心を傷つけられた。ちょっとした事にでも顔色が変わると言った様な事ではならないぞと、ね、だから上野先生としてもこれを日々のかけ守りとしておかげを頂いていきますと言う様なお届けを致しました。
 そりゃあもうそげんずっと心にかけとらんならんなら大事っち言う事はないです。それが有り難いのです。それが楽しいのです信心は。ね、しかもその向こうにある、はあ間違いのない働きを頂いていけれるという事が有り難いのです。ね、その根本にはです矢張り関さんの生き方じゃないけれども、船もろともという気になれば楽と言う様な、一つの悟りを開いての事でなからなきゃならないと私は思うのです。
 私は昨日の朝の御理解を、まあちょっとまっ大意の所だけを文章に書いてみた。自然の働きを無視してのすべての事は、これはもう政治であろうが、人事百般日常生活の事であろうが一切同じです。ね、今の政治あの政治がその事なんかと言う事が私共には分からんのだけれどもです、あまりにも人為的であり、これが文化的であり進歩的だと信じている政策は必ず失敗に終わると言う事です。
 んならここでそれを私が、あの人間心という、もう人間心でした事はいかにもそれは親切のように見えたり真心のように見えたりしてもです、ね、それは必ず行き詰るです。人為的なものは。そこでです自然に順応自然を尊重と言う所に、昨日は焦点を置いて頂きましたですね。そういう生き方ではいけないと。場合には恥ずかしい思いをするような事があるかもしれん。損になるような事があるかもしれんです。
 けれども自然の働きに順応していく、いやいや自然を尊重していく。自然の働きそのものを神様の御働きとして合掌して受けていくという生き方になる。もうその所がです、私は合楽の信心の根本理念だと思うです。ね。百円なら百円の事でいけるのに、二百円のことしなければおかしか、と言うて、いうならば後から百円を借り(?)てするような事では絶対に行き詰まるです。
 恥ずかしい思いをするけれどもね、それだけのもの、あるだけのもの。自然を愈々順応いわば自然を尊重していく、生き方に必ずおかげになる。総代会に親先生どういうわけにね、例えば私の生き方の上にはです、自然が私の思うままになってくださるかと。例えば今度の久留米のインターハイの事でもそうです。市長さんが折り入ってのお願いであった。どうでも先日の一日の日ですね、三時から六時までの一番大事な日だけでも良いから、どうぞお天気のおかげを頂くようにというお願いであった。
 それで私が、まあ、三時から六時までと仰らずに、ね、インターハイが終わるまで、五日なら五日、六日なら六日の間をどうぞおかげを頂くようにというてお願いをなさった方がいいですよと。そんな欲なことができるならどうぞお願い致します。じゃあお願い致しましょうと言うてお願いをさせて頂いた。おかげで本当に嘘のような快晴の日が一週間続いた。中で夕立がありましたけれども、それは久留米旧市内だけには降らなかった。周囲の全部がそれこそ溜まるように雨があった。ただ驚きであった。
 七日が終わったから、ね、一同でお礼に出てみえた。もうそれこそ感動のお礼のお参りであった。もう心から有り難かった。ここの信者さん方に合われると、そこまで出掛けに会われる人ごとに合掌しながら、有り難うございました、有り難うございましたと言うて、市長さんが、合掌して出られたということです。本当に有り難い時には、こう合掌せにゃおられませんわね。そしてもう帰り着かれただろうか、という六時ぐらいからあのどしゃ降りであった。
 もちろん今度は久留米市内、この辺も一緒であった。そう言う様なです事がどうして出来るのか。それは私がいかに日頃自然に順応し、自然を尊重しておるかと言う事、私が私なりに一生懸命に成り行きを大事にするから、神様が私の願いをそのように聞き届けてくださるんだというお話をしたでしょう。ね、それがもう合楽の信心のですね、もう根本理念なんですよ、おかげの合楽の場合。
 そこをです人為的にね人間心を使うてね、しかも自分の顔が立たんからとか、損をするからとか、恥ずかしい思いをしなければならんからと言った様な事でです、ただ自分を中心にした所から、その人為的な生き方になるときに、必ずそこには行き詰まりがくるです。そう言う様な事の無いようなです、愈々合楽を合楽として現していく、お互いがその事をです一つの宣伝の、まあ材料とさせて貰うならばですね、
 合楽だけではない、私も私の一家もこの生き方でこのようなおかげを受けておると言う事を宣伝させていただくためには、まずは銘々が頂かなければならないという、いうならば一大覚醒を促すというような意味の御理解でしたね、昨日の御理解は。だからなら昨日の御理解のような御理解をです、一つ踏んまえての日々でなからなければ。今日頂くようなです、ね、驚いてはならんぞ、と仰るけれども驚かにゃおられん事になる。ね、それには日々のです。
 なら上野先生が頂いておる、白露をこぼさぬ秋のうねりかなと、言った様な生き方を行とする。そういう生き方を楽しみとする。そういう生き方を身に付けて行く所に日々間違いのない、小刻みながらも間違いのない働きを頂き現して行く事ができるから、この様に間違いのない働きの中にあっておるのであるから、これがよし大きな事であろうがです、ね、それこそ船もろともになる心が生まれてくるのです自然と。
 私は昨日教徒新聞がまいりまして、読ませて頂いて本当に感心した、記事が出てましたからここに書き写した。それは久留米の播磨さんの事であった。総代さんの。丁度ここで松影会がありましたね。あの日にみえてなかった。それはあの広島の平和祈願があっていたんですね。それで全国から集まって広島集会にての、久留米の播磨さんの発表なのです。問題提起をなさっておられるわけです。それにこういう事を言っておられるです。私は満七十二歳であるが、教祖の教えを頂き。
 信仰体験を通して確信している事を、確信している事を言えば愛とは天地の親神の願い働きそのもので、これなくして人間は生きていけない。この願いを私共の願いとし、願いとし、その輪ですね車の輪のわ、その輪を次第に世界に広げ、総氏子の真の助かりを祈るという信仰実践に生きたいと発言した。と書いてありました。素晴らしいでしょう。どんなにです、そのテーマがですね、何でしたかね。まぁあ人類愛についてと言った様な、事がテーマでの、時の問題提起なんですこれがね。
 だからその愛とはどう言う様な事か。人類愛とはどう言う様な事かと、それをですね例えば信仰体験を通して、確信している事をいえば、愛とは天地の親神の願い、働きそのもので、これ無くして人間は生きていけないという風に言っておられますね。愛とは天地の親神様の願いが、ね、働きそのものが愛だ、と言っておられるわけです。ね。私はねそれを知っておる人は沢山ありますよ。
 けれども素晴らしいのは、私の信仰体験から言えばと言う所が素晴らしいのですね、ですからどう言う事かというとです、どう言う事が例えば起きてきてもですよいうなら、今日の御理解で言うならどう言う様な事が起きてきても、それはあなたに対する天地の親神様の願いであると共にです、天地の親神様の、氏子可愛いという御働きの現われだと言っておられるわけです。
 私は信仰体験を通して播磨さんが七十二歳にもなられてです、ここん所の体験をしていっておられるという事が素晴らしいと思うです。私は金光様の信心の根本になる所はここん所を分からなきゃいけないです。それをですね一つの、小さい輪から大きな輪へ、丁度この水の中に波紋がこう描いて行く様にです、その一つの輪となってです、ね、世界の総氏子の助かりを祈るという信仰実践、信仰実践に生きたい。そういう実践を実際なさっておられるですね。
 七十二というそのもう年齢でありながら、もうそれこそ、久留米の教会の事はいうに及ばず、松影会の事は言うに及ばず、ね、ここのいわば連合会の会長としてです、ね、全国のいろいろな役もなさっておられる。それこそ席の暖まる暇もないように、こういう信心体験を基にして、これを一つのモットーとして進めていかれておると言う所は素晴らしいです。ね、何故成り行きを大切にするかと。
 何故驚かんかと。何故驚かんですむか、それはおかげを頂かなければならんから白露もこぼさんような生き方で行くと言う様な生き方じゃないです。ね、おかげを頂かなければならんからじゃないです。この神様のおかげを頂かなければ人間は生きていけないという願いをです、私共の願いとしてという所が素晴らしい。神様の願いを願いとしてです、いうならば今の合楽の言葉で言うならば。
 合楽を宣伝しなければおられないと言う事になるのです。おかげを頂かんならんけ、ん宣伝するのじゃないです。神様の願いが、分かれば分かるほど、神の愛が分かれば分かるほど、いわゆる神愛が分かれば分かるほど、ね、その輪を世界に広げ総氏子の助かりを、祈るという信仰実践です。ね、実際にそれを行うていくという、働きに移って行かなければならない。そういう事に自分の生涯をかけたいと言っとられます。
 だからそういう例えば、同じ分かるでも分かり方、なら合楽の場合皆さんの場合なんかはです、なら体験をこまごまと頂いていっておられるのですから、その体験がです、ね、大きなことが起こっても驚かんですむという信心だけではなくて、それは天地の親神様の願いだから、それが神愛なのだから、それを神愛として受けて、そういう生き方そういう働きをです、ね、
 世界に広げて、氏子の真の助かりを祈るという信仰実践に生きたいという信仰、理念ですか、ね、に、私は基づいて信心が進められて行くと信心が偉大になるです、大きくなるです。驚かんで驚くなと言われても驚かなければおられない。それが普通である。なら信心させて頂いておる者が驚かにゃおられんというて驚いておったら、信心する者の値打ちはない。そこで私共がね、大きなことではない。
 日々の小さい事の中にでもです、ね、驚かんですむ稽古をしっかりみっちりとできたところからです生まれてくるのは、ね、日々はあこの様な間違いの無き日々が送られるという、いうならば神様を信じて止まない心が愈々募ってくる。愈々有り難うなってくる。そういう生き方をしながらもです、ならまさかと言う様な、目の前が真っ暗うなる様な事が起きてきてもです、こういう間違いのない御働きの中にある事であるから、
 日々親先生の御取次を頂いて起きて来る事であるから、それが例えばどの様な事であっても、神様の御働きに間違いはない、神のそれを愛と悟らせて貰い、神の御働きとして頂ける事になってくる訳です。ね、只驚くなと言われても驚かにゃおられん、それが普通です。けれども私共は日々信心させて頂いておるから、日頃只今申しました様な信心の稽古を楽しくさせて頂いておるから、楽しゅうおかげの世界に住む事が出来ておる。
 愈々朝のすがすがしさ、昼の忙しさ夜の有り難さを積み重ねて行く所からですね、神様の御働きの中に起きておる事、御取次ぎを頂いておる、親先生の祈りの圏内に起きておる事だとしてですそれをね、謹んで合掌しながら頂いて行く事が出来ると思います。どうぞ、大きな事もさる事ながら、小さい事に驚いたり慌てたり又はね、心が迷うたり動いたりする事のない様な信心を先ずは頂いておかなければならんと言う事でありますね。
   どうぞ。